昭和51年3月31日 朝の御理解
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御理解第62節
「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心もしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」



 にわかに先生にはなれんぞと、あー言う一つの見本のようなものが私だろうと思うです、お道の教師を志させて頂いて、十、十八年ですか、まあ、ようも辛抱したもんだと思います。要約十八年目にお道の教師になれたんですから、ね、ほんと、だから、やはりにわかに先生にはなれん。
 その間に、いよいよ、わが身の上におかげを受けてと、先生と言うからには、やはり、自分自身が先生がとある助かりをもたなければならん、でなかったら人は助からん、ね、まあ、今時は先生になろうと志を立てて、そして、一年間、学院で修行してまいりますと、もう一年目にはお道の先生としての資格を得られます、だから、言うなら、にわかに先生になれるのです、いわゆる、にわか先生が多くなった、それで、人は助からなくなったと言う事になるかもしれません。
 にわかには先生にはなれない、ね、人が認めた先生ではつまらん、神様が認めてくださる先生でなからなきゃでけん、ね、先生になる、これは勿論ここで先生と言う事はお道の先生と言う事です、ね、それには先ず、自分自身が助かること、自分自身が、例えば心の中に有り難い境地を開けた、もう我情もなかなければ我欲もないと言うように心の中に思うようになったようにあっても自分自身が助かってなかったらそれは本当なもんじゃない。また、お話をさせればどんな話でもお道の話が出来る、ね、それこそ、泣かせたり、笑わせたりして、その、信心、お説教な、なる、の上手な先生の所では、やはり、信心の話が上手に出来ると言う事だけで先生と言うことではない、先生の資格、ね、教祖様が仰る、にわかには先生にはなれんと言う先生、それには先ず、自分自身が、言うなら、手本が示せれる、本当に教えられれる、自分が助かって、そして、人に教えられる先生の事をここではいってあると思うです、ね。
 学院出れば先生の資格が取れる、ね、そういう先生が布教に出る、それで、人は助からん。
 信心もお手習いも同じ事、一段一段進んで行くのじゃと仰る、昨日の御理解じゃないけれども、手習い、言うなら、稽古をしておるようであるけれども、ただ、手習いの草紙に、ただ、真っ黒く墨を塗っておるだけの事、信心の、言うなら、いろはの「い」の字から、ね、書き覚えようとはしない、ただ、ここ紙をここ紙にして、真っ黒にしておるだけ、毎日お参りもしよる、毎日拝みもおるけれども、信心の稽古をしない、信心、ここには信心の稽古に来る所とこう仰る、なるほど、お話は頂いておる、けれども、稽古をしない。はぁー今日の御理解は有り難い御理解だった、また、今日の御理解はなるほど納得のいく、なるほど、なるほどと思うて頂いた、頂いただけで、そんなら稽古はしよらん、だから、聞いただけ、参っただけで稽古をしておると思うておる、だから、信心が一つも進まん。
 昨日、西鉄の、国鉄西鉄がストーでしたから、朝バス下りをする人達が昼から会場になったんですか、参って見えた、吉井の熊谷さんやら、羽田野さんやらは、そういう訳、朝お参りが出来なかった。それで、朝の御理解をテープで頂いておられた、二人であそこ、で御理解を頂き頂ですね、その熊谷さんが御心眼を頂かれた、そのコップ、そのコップというのが、茶碗というのが紙で作った感じの茶碗です、それが、あの、熊谷さんの膝元においてある、それに、確かに隣におんなさる、その、波多野さんが熱いお番茶をドクドクト、こう、ついでおられる所を頂いた。ね、のどの乾く時にいっぱいの冷たいお水を頂きゃ、あー美味しかったと誰でも思います。寒い時に、ね、お番茶の熱いのよばれたら、もう体が温まるように思う。ね。
 私は一生懸命御理解を頂いておる、一生懸命ノートしておる、いうならば、そのままを、また人に話をしてあげれるぐらいにまとめもでけておる、けれども、例えば、それだけで済んだというのでは、それだけで稽古をしておる、勉強しておるとはいえないというのです、信心はそれを、ね、日常の様々な生活の中に、ね、稽古をさせてもらうと言う事は、その事に取り組んでの日にちでなかなければならないという事です。ただ、お話が、御理解が、それこそ、のどの乾く時にお水を頂いたように、はぁー美味しかったと、はぁー本当に熱いお番茶を呼ばれて体が温もったと、いうだけではお茶やら水で血肉になるはずはないということであります、ね、お茶やら水やらが、そんなに血肉になるに栄養があるとは思われません。
 昔から、人もよけれ、吾もよけれ、人より吾はなおよけれというているが、神信心をしても、わが身におかげを受けて、後に人を助けてと、ここでわが身におかげを受けてと言うことは、様々な、例えば病人なら病人が助かる。
 昨日も、そこの久保山さんが、娘さんが丁度手のかかる所に手がけようちいうんですね、それが、その、近所に、あの、やはり、同じ手の器用で、もう大変難儀をされて、もう医者にもかかり、もうずいぶん難儀をされた、あの、方がおられて、娘さんもやっぱり、そういう、これは、まあ、用だと、もうとにかく、まだたくまにこんな大きく、あの、何か、そこにたくさんこうぶつぶつが出けてね、いわゆる、用の、言うなら、病状というんですか、それで、すぐこちらにお届けに見えられました、御神米と御神酒さんで、もう本当に、まだ完全ということじゃないけれども、もうほとんど治られて、痛みも取れて、まあ、おかげを頂いたのを近所の、その、同じやっぱし手が器用で苦しまれた人が二人おられる、ほらもうちょっと御神米とか御神酒さんちゃそげんきくもんですかと言うて、おかげで娘がおかげを頂いてくれた頂いてくれたおかげで自分カッとができましたというて、昨日、お届をしておられる、ね、だから、わが身におかげを受けて、そして、人に話をしてあげれると、または、示現活動ができるという程度の、私は、人を助けてやれと言うこともあるけれども、最後ににわかに先生にはなれんよと言われる、本当に、取り次ぎ助けてやれれるほどしの力、それには、自分自身が取り次ぐ気によって、助かる、言うならば、病気なら病気の体験だけではなくて、自分の心が助かる、人の話をしてあげれると言うのだけであったら、ね、ただお水を飲んだ、お茶を飲んだと言うぐらいで、の頂き方でもです、今日の御理解はこうじゃった、あーじゃったというて、お話してあげれるのですけれども、ね、それでは、真の助かりにはならない、私達がもういっぺんここに確かな物を、をにです、信心をしていくことのために、ね、ただお水を頂いたり、ね、のどの乾く時に冷たいお水を頂いたり、または、寒い時には温かい、熱いお番茶を呼ばれたりするような程度にしか御理解が頂いてないとするなら、それでは血にもならなければ、肉にもならない、そういう、私はおかげを頂いて、ね、後に人を助けてやれと仰るのですから、ね、問題は自分自身が助かるということは自分自身が幸せになるということ。
 昨日は、吉井の杉さん、元ここで総代の御用を頂かれた、(杉勘蔵すぎかんぞう?)さんの帰幽日したから、帰幽祭ございました、まあ、色々頂きました中に、丁度、桃太郎さんの絵に見る、あの、●② 桃がうっかり、うっかり流れてくるといったような格好でね、スイカが流れてきよる、スイカがうっかりうっかり流れてきよるお知らせを頂いた。ね、それを、あの、それこそ、こんげこり、こんげこりち言うてから、その、スイカを手元の所に拾いあげようとするような様子を頂いた。
 御霊様が、ね、本気で修行をしようと言う気になったと言う事です。ね、●、例えば、安楽という、いうならば、本当に安心、そして、楽と書いてあるから、安楽のおかげ、人間でも御霊様でもおんなじ事、やはり安楽のおかげを受けられた、丁度、ある汽車の中で使います、空気枕ですかね、あの、空気枕がどこがちょっと、空気が抜けるところがあるごたるふうで、もう、あの空気が抜けて、もう抜けてしまっておる、その枕をしておる、それを誰かがこうふくらかして、だから、私、昨日杉さんに、まあ、申しましたが、まだ、御霊様のご様子というのが、本当の安楽という所までのおかげを頂いていない、だから、毎日、毎日、いうならば、空気を入れてやらなきゃならん、それには、やはり、朝晩の、いうならば、御祈念などを丁重にさせてもろうて、ね、御理解なんかはもう毎日、まあ、頂いてもらう。
 昨日、ちょうど四時の御祈念に併せてということでしたから、もう三時に、あの、神饌が済んでしもうとりました。それで、三時からここで研修を致します、ですから、御霊様が、その、三時の、もうお供えも済んでしもうて、ここで研修が始まった、その、研修の御理解を頂くと言うような姿勢を、あの、見せます。だから、もう、その、私御祈念をさせて頂く前に一時間、昨日の朝の御理解を頂いて、しかも、あの、後の研修の所までも頂かれる。おかげで、その枕が、こうふくれて、いうならば、安楽の様子である、ね、けれども、またこれはそれにちょっと傷があるかなんかでしょう、また、自然と抜けていくから、これからは、なら奥さんである杉さんが、毎日、入れてあげなければいけない、ね。 だから、毎日、毎日そう言う、なら、遺族のと言うかね、家内の手を取るような事ではなくて、ね、椛目の時代に総代の御用まで頂いておられた時分にお話を、いうならば、頂き込んでおった御理解をもういっぺん頂き直して、そして、本気でその修行に取り組んで修行させて頂こうという、言うならば気概。
 人間が(  ?   )もっております時には、お金があればもう幸せのようにある、ね、目が見えておれば、耳が聞こえておれば、もう、それで、いうならば、お芝居を見る事も出来れば、ね、いうなら、素晴らしい音楽を聞く事も出来る、また、おご馳走を頂きゃ、口の下に、あーおいしかった、本当に(   ?    )じゃったというて、その、味わう事の幸せも感ずる事が出来る。人間はそれが出来るから、なかなか本当の信心にならない、言うなら、信心はしておっても、今言うように、昨日、熊井さんが頂かれたという、ね、御理解は頂いておりましても、その、御理解を行じようとしない、ただ、はぁー本当に美味しかったと、はぁー体がこれで温もったというように熱いお番茶を頂いた程度、のどが乾く時に冷たいお水を頂いて、ただ、のどが潤うたというだけの程度ですまわしてしまう、それは、人間が、その、五感のどれかが幸せを感じ取れればもう自分が幸せになっておるように思うからです、ね。
 まあ、おかげで、ね、見る事も聞くことも味わうことも匂うことも、肌に感ずる感触も、ね、頂いておって、そこで、なら、それを見たり聞いたりしておる時に、はぁー本当に幸せ、お芝居を見たときに、いやば、幸せを感じる、そういうものができるけれども、魂の世界に入るとそういうものがない、見たり聞いたりということが出来ん、食べて味わう所で、ただ、魂そのものが助からなければ安楽と言うことにはならない、ね、そこで、その魂の助かりを、ね、様々な手がかりをもって魂が助かろうと勤める、安楽の御霊としてのおかげを頂こうと勤める、そこに、なら、遺族のものと、その、御霊との働き合いというものが段々安楽の御霊として、いわゆる、喜びの御霊、安心の御霊として成長を遂げていく、いってあろうけれどもです、ね、人間は、例えば、本当に信心とは本心の玉を磨くもの、信心とは日々の改まりが第一、ね、もうとにかく信心とは魂を清める事ですよと、いかに、あらゆる角度から教えてもろうても、教えてもろうても、ね、それを、魂を清めようという働きをしない、お話を頂いておる、心が清まる、けれども、そう言う清まりでは、いうならば、ね、日に1回お風呂に入って体を清めるけれども、明くる日はまた汚れておるようにです、ね、御理解を頂いて、ね、御祈念をして心が清まったというだけではなくて、本心の玉を磨くという、様々な問題なら問題を通してそれを磨きの材料にする、改まりの在り方にしていくという生き方、それに、御理解を頂いて、その手がかりを撃つ、いわゆる、本心の玉を磨いていく、魂の清まりを願うていくと言う、手がかりにしいくと言うような生き方をしなければです、いつまで立っても自分が助かるということにならない、時々、自分が錯覚する事がある、長年信心を頂いておるおかげで、もう、本当に自分の我情我欲が取れたように思うことがある、魂が清まったかように思うことがある、本当に我情我欲が取れたり、本当に清まっておるならです、それこそ、わが身は神徳の中に生かされてあるという実証がおかげになってとものうてこなければ本当なもんじゃないのです。ね。
 ただ、自分だけが自己満足、ただ(   ?   )、という信心から、ね、本当の意味においてのです、ね、まあ、いうならば、我情我欲が取れて、わが身は神徳の中に生かされてある喜びに浸らせて頂けれる生活、そこに、本当に助かりというのがあるのです。 毎日お参りをさせて頂いておる、はぁー今日の御理解は有り難い、今日の御理解は合点がいったと分かっただけではです、それは、ね、のどが乾く時に水を頂くようなもの、寒い時に温かい番茶の一杯を頂いて、はぁー温もったというものであって、決してそれでは血にも肉にもならないのだと、毎日参りよるから、御理解を頂きよるから、信心が一段一段進んでいきよるという事では決してないということ、一段一段たす、進んでいくということは、ね、言うならば、本当に魂だけに焦点を置いて、心だけに焦点を置いて、ね、心の安らぎ、心の喜びを感じさせて頂く修行に取り組ませていたもらわなければです、ね、わが身の助かりという事にはならない、わが身の助かり、そして、後に人も助けてやれる、にわかに先生にはなれんぞ。
 今日は、だから、そういう意味で、ね、久保山さんの例を取って、お取次を頂いてお願いをした、願ううちにたまたまそういう手が器用な方が何人かあって、大変難渋しておられる方達が、ね、ただ、お神酒さんと御神米でおかげを受けたという事で、はぁーそげん御神米っちゃ効くもんのう、御神酒さんちゃそげん効くもんのうと、ね、たまがられて、おかげで、そのおかげを頂いた手もつを話しただけで示現活動がでけたと久保山さんがいわれるような意味においての助かりと、または、人を助けてやれというか、人に話してあげれるという程度の事と、今日は、にわかに先生にはなれんぞと、そんなら、じっくり信心の稽古をさせて頂くということは十年お参りが出けた、20年というのではない、ね、本気で自分自身が助かって、ね、言うならばです、ね、その、自分の心が助かり、その心にとものうてくるところのおかげの実証を頂いて、初めて自分が助かる、お道の信心によって助かったということがいえる、ね、なるほど、私がお道の教師を志させて頂いて、神様がお許しを下さったのは、ね、18年目であったということ、今時、なら、今、先生になろうと志させてせて頂いたら、ね、学院に行きさえすりゃ、決して、どんな、ほとんど、ね、試験が通らんやったという人はまだ一人もない、まあ、誰もとおるような試験ですから、誰でも、先生になろうと思えばなれれる、いわゆる、そう言うのはにわか先生、ね、だから、そういう、にわか先生ではなくて、本当に、先生になるためには、わたしは18年かかった、中身を実力をです、先ず神様が付けてくださってからの先生であった、おかげで、私も助かっておかげを頂いてまいりましたが、なら、ここで、ね、お取次を願うて助かりたいという方達がたくさん助かるようになったという事になります。
 しかも、その18年間をただ聞くとか、頂くだけではなくてです、ね、それをいよいよ、ね、自分の血に肉にしていく信心を身に付けさせて頂いたということになります。ね、だから、にわか先生ではいけません、また何十年お参りをしよるから、また信心が詳しくなったという事で人が助かるというのではありません、または、自己満足で、ね、自分のもう我情我欲が取れたように思うておるけれども、それに、わが身は神徳の中に生かされてあるなあと思われるようなおかげの実証が無かったら、まだまだ本当なものではない、お話を頂いて分かったかのように思うておるだけ、自分のものにはなってはいない、徳にも力にもなっていないということを一つ、まあ、分からせてもろうて、ね、本気に信心の、信心の修行と言うか、言うならば、日にち信心の真をね、現して行く稽古をしなければいけない、ね、ここ二、三日頂く信心の真を御理解を頂いて、信心になれよとは真心になれよと書いてある、信心とは、ね、それをもうあんまり聞き古して頂き古してきておりましから、何事も信心にならにゃん、何事にも信心にならにゃんと言うて一つも信心になっていない、そこで、信心の真を現して行くおんなじ事なんです、ね、ところが信心の頂いてきた、まあ、その真を、ね、現していくということ、ね、その信心の真を、あ。
 昨日その事を研修の時にここの修行生の人達に話したんですけれども、例えば、お掃除をしておりますというだけでもです、信心ではしておりますだけでは、信心の真を現したということにはならない、ね、ほうきを握る時、雑巾を握る時に、じゃこれからは、日頃習っておる信心の真をこのお掃除の上に現すぞと、さぁー、それこそ(   ?   )じゃないけれども、さぁーこれが信心の真を現すとよというて親子四人で、その、起こす時に、あの、ね、そう思い、そう云うてそこんところに自ずと内容が変わってくる訳です。ね。
 だから、信心の真を現すという事がです、何事も信心になる、何事にも信心になっていきゃ信心はいよいよ進んでいく、ね、そう云う一つの信心の自身と言うかね、をさせてもろうておかげを頂きたい。
 私は、昨日、熊谷さんのそのお知らせを頂かれたという事を聞いてから、本当に、ただ毎朝参ってきて、毎朝御理解を頂いて、ただ、本当に熱い番茶を頂いて帰ったという程度にしか頂いておらない人がたくさんありはせんだろうか、それを真に現して行くといったようなことをしなかったら何時までたっても、いわば、信心の血に肉にはならないという事であります。
          どうぞ。



末永静行
2006年3月11日